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薔薇
隠すのもバツが悪いので、クランスはカップをソーサーに重ね、それを机の上に置く。そして、頬をかいて息を吐いた。 「ええ。いつかは言おうと思っていたのですが、なかなか言い出せず、大変申し訳ありません。僕は、できれば、というよりもご両親の了解さえいただければ、ローズを英国に連れて行きたいと考えています。もちろん本人が望めば、の話ですが」 我ながら子供っぽい言い方だとは思う。けれどどんなに言葉を取り繕ってもこの老紳士には勝てないのだ。父親とは違い、目の前にすると目に見えない威圧感でどうも縮こまってしまう。 センツァバーグ卿は、そうですか、といったきり少しだけ口を噤んだ。それからふと、背後を振り返って窓の外から見えるセントラルパークを見た。緑の木々が風に揺れている。けれど天気がよくないので、日差しは注ぎ込まれない。沈黙する空間の中で、クランスは返答を待った。 「それで、あなたはあちらに社交界の後見役がいないことを心配して、アルバート伯とローズを引き合わせておこうと考えたのですね。確かに、あの方ならわたくしも安心してローズを任せられますわ」 「アルバート伯は、あちらでもこちらでもしっかりと太い大樹のようなパイプラインを築いているという話を英国の友人から伺いました。彼なら、安心でしょう」 ああ、やはりそこまでお見通しか。 「会って頂けますか?」 まどろっこしい説明の一切を考えていたが、それを全部省いた上で単刀直入に聞いてみた。センツァバーグ卿はくだらない嘘はつかない。その上、娘が絡んでいるとなれば余計に。 「ローズは今日無理ですが、また機会はいつかありましょう。今日は私たちがアルバート伯をおもてなししましょう」 にっこりと腹に一物あるような笑みを浮かべて老紳士は微笑んだ。 とりあえず危惧していた不安は解消されたということの安堵にクラウスは情けなくへなへなと体の力を抜く。そして空になったカップを見る。 「よろしければもう一杯いかがですか?」 執事が主人と同じような笑みを浮かべて微笑んだ。 全くかなわないと、嘆息して、クランスは頷いた。 「クランス伯、どうか、ローズをよろしくお願いしますね」 新しく注ぎ込まれた紅茶に注意を向けていたクランスははっとして、居住まいを正した。それから、真っ直ぐにアンナの方に向き直る。 「 クランスがローズと出会ったのは彼女がこの家に迎え入れられて一年経った頃だった。アメリカでも数少ない社交場である、結婚式。そこに訪れていたローズにクランスの方が一目惚れをしたのだ。クランスの従弟の結婚式で出会った彼女はまるで薔薇のように美しかった。その瑞々しさは今でも衰えることを知らず、まるで朝露の薔薇のように美しく光り輝いている。などと言ったら、きっと件の友人に笑われるのだろうな、とクランスは心の中で苦笑した。 ローズはどうやら、漁港の倉庫の近くに全身ずぶぬれのまま膝を抱えてうずくまっていたのだそうだ。身なりはそれなりに立派で、少し古ぼけたデザインの服だったが、それでも名のある筋の娘ということが知れた。背中には大きな刃物で切りつけられたような傷があったという彼女は、漁港関係者が警察に通報したことで発見された。服がやたら高価だったことと、身につけている装飾品がそれなりのものだったため、警察当局は彼女を英国から米国へ何かの事情で売られた貴婦人と推測した。まあ、眉唾に拍車がかかるだけの代物だったのだが。身請け人がいないまま、放置するとしても一体こんなけったいな身分の人間をどこに押し込めればいいのか、警察は困った。その折、運よく警察の友人を訪問していたセンツァバーグ卿が少女を見つけ、養女として育てるという旨を示した。 一体どこの少女なのか、ということはローズの記憶が失われていたことにより、一切わからない。わかったのは少女が言語、美術、文芸、科学、その他の教養にとてつもなく秀でていたことだけ。フランス語、イタリア語、ドイツ語、ロシア語、英語はもちろんのこと、スペイン語まで自在に話すことができる。知識の深さは医学、薬学、生理学、物理学、化学など多岐にわたり、おおよそ一介の凡人が一生のうちの知識として詰め込むには信じれないほどの膨大な情報が彼女の脳には入っているらしかった。学識の才は非常に豊かで、いったい何処から聞いたのか、意外な話題を唐突に降ることもある。特に女性でありながら政治、経済の話にはとことん強い。時折討議しているとクランスが言い負かされるほどに。 そのようにあらゆることに精通している女性だから、一体どこの誰だのと言う話があちこちで浮上した。攫われた英国の王女だの、亡命したどこそこの国の公女、だのおおよそありえない風聞があちこちを闊歩した。そして今、二年以上経っても、件の少女の記憶は一切戻らないのである。 「いつかもし、あの子の記憶が戻ったとしても、あなたはあの子を放さないでいてくださいますか?」 それがおそらく、目の前の女性の本音なのだろう。 頷くことはすぐにでも出来た。けれど、それは軽々しさを露呈するだけだ。だから、しばらく待って、神妙な顔でクランスは頷いた。力強く。 「そう・・・・・ですか。ありがとうございます、クランス伯」 ほっとしたように顔を緩めて、アンナはふと気になることがあったのか天井を見上げた。真上には娘の部屋がある。 ごとん、ばたんと音がする。 「クランス伯?」 さっと顔色を変えて、クランスは立ち上がった。なんだかものすごくいやなことが起きそうな気がして、いても立ってもいられなかったのだ。 あながちそれが外れていなかったことを知るのは、もう、随分経ってからになるが。
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