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薔薇
礼を言って立ち去ろうとすれば、男がローズを呼び止めた。いぶかしんで振り返ると、主人は神妙な顔をしてこちらに話しかける。
「最近、妙な事件が続いてる。知ってるだろう? ほら、あの」
「切り裂きジャック? たちの悪い冗談かと思ってたけれど、ホントなの?」
今月に入って七人目だという、切り裂きジャック。英国から輸入されたという殺人気の話だ。けれどジャックザリッパーだという話自体が眉唾物だし低級誌がほのめかしているような話題である。もし事実だとしても、英国で何十年前かに流行した連続猟奇殺人事件の模倣ではないかと、ローズはふんでいた。
「だって、切り裂きジャックの最後の犯行は一八八八年十一月九日で事実上終わっているじゃない。警察を挑発するために送りつけられたといわれている手紙もどうだかわからないし、第一犯人が特定されていないのよ。三人ほど犯人として有力視されていたというけれど、どれも的確に当てはまらない。犯人しか持ちえていない秘密の暴露がないのだもの。犯人の特定を公表した英国警察とマスコミそれ自体が怪しいものだわ。今から二十年以上も前の話だし、今頃輸入されてきた殺人鬼と騒ぎ立てるメディアの方がおかしいのよ」
「詳しいな。じゃあ、その線から考えると模倣犯である可能性が一番強いってことかぃ? 本物ご登場ではなく」
「さぁね。あくまでも推測の域をでないし、あたしは素人よ。どうせ一般市民にはわからないことですもの。そうね、もし仮に犯人が生きていて、万が一輸入されてきたというのなら、犯行当時犯人の年齢が若くて三十歳だとするなら今は五十歳になっている。生きのいい三十代までの人間を、この一週間で三人殺せるような体力があるかしら。あったとしても完璧に証拠を消してなせるほど、おりこうさんじゃないと思うわ。それに、随分冷え込んできているもの。明日あたりには雪が降るんでしょう?」
視界をめぐらせれば、灰色の淀んだ空がマーケットの合間から見え隠れする。
「今日あたり、雪が降るかもなぁ」
先月も寒かったが、今月の寒さは一際だ。今日あたり本当に雪が降ってもおかしいことではない。
「とにかく、若い娘の一人歩きは危険だ。今度はステラでもなんでも侍女を引っ張ってくるんだな、トマト色のお嬢さん」
「はいはい。どうも。じゃあ行くわ。トマトありがとうね、ジェイ」
踵を返して、手を振る。人々の雑踏に紛れ込みながら、トマト色の女は家路につくために足を動かした。
ニューヨーク一九一一年。灰色の空はまるで何かを暗示しているかのように鉛色に輝いていた。
マーケットプレイスを歩いていると、強い、誰かの視線が感じられた。先ほどのものだろうか? やはり勘違いではなかったのかもしれない。けれど単なる思い過ごしだという気がしないでもない。外套を羽織る女の横を、不景気そうな顔の男の脇を通り過ぎながら、籠に花束をいれた少女の視線を逸らしながらずんずんと歩いていく。けれど、どうしてか気配だけはずっとこちらを追っているのだ。
雑踏の中で立ちどまり、そして一瞬だけ天を見つめる。渦を巻いている雲は黒くて重たい。灰色の色彩を纏ってそこに鎮座している。立ち止まる自分の背中を誰かが押す、邪魔だったのだろう。再び歩き出して、ローズはちらりと後ろに視線を送る。けれどそこには何もない。誰もこちらを見ていない、ただの他人しかいない。一体どんな勘違いだ、と自嘲して今度は気にしないように歩き出す。
路地から人が溢れるようにこちらに出てくる。日常茶飯事なのであまり気にしない。帽子をかぶって俯いている壮年の男、疲れた顔をしている女性、流行のドレスに身を包んだ女性は見当たらず、疲れ、やつれた顔の労働者階級の主婦が歩いている。顔を泥だらけにした子供達が黄色い声をあげて前を横切った。あわてて静止して、子供の背を見送ったローズは再び歩き出そうと顔を上げた。その中で、ふと、誰かの目と目があった。
「?」
一人の青年がそこにいた。上から下まで全身黒ずくめで、陰湿な表情をしている青年だった。生気のない、そういう言葉がよく似合う。牧師か何かかとも思ったけれどそんなものとは少し違うようだ。首に十字は下げられていない。法衣も着ていない。頭に帽子もかぶっていない。何より黒ずくめはあくまで黒ずくめで、法衣とは全く異なる。
古くさい、丈のやたらと長いフロックコートが異質なほどよく似合っていた。黒いシャツに黒いタイ。形のいい細長細身のスラックスは、その人物の足の長さを誇張するに十分なほど調和していた。黒光りする磨き上げられた靴も、まるで本物の紳士がそこにいるようなさまを醸し出しているのだった。
身長は高く、姿勢もよい。顔立ちははっきり言って整っていて、独特の雰囲気を醸し出している。白い肌に薄い唇、すっと額から通った彫りの深い容貌。アメリカ人でも英国人でもイタリア人でもフランス人でもないような独特な顔立ちだ。切れ目の相貌が僅かに震えている。
珍しい、と思った。あんな煙るような瞳は見た事が無い。
それに、あの透き通るような銀髪、白髪かしら・・・・。
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